医療法人 湘悠会 むらかみ眼科クリニック
 
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“ーミリ" ずつの進化を目指して
H25年5月15日 宇医会報より

 今年も桜花の美しい季節が到来し、小院に隣接する運動公園の桜並木が美しく咲き誇っている。遠くから眺める桜並木の景色も背景の九州山地の山並みの翠に映えて素晴らしく、また、朝夕のジョギングでの周回路に沿って咲き誇る桜花を聞近に眺めながら、蕾から日々少しずつ開花し、そして、満開の後、桜吹雪の中で葉桜へと変わっていく風景もその美しさへの感動と共に儚さも少し感じさせる。長い冬の風雪や夏の暑さに耐えながら、春のわずかな数週間の中で、毎年精一杯咲き誇る桜を見て、自分の人生もこうありたいと願うこの頃である。このような美しいものに感動することや目標に向かって希望やワクワク感を持ちながら精進することは、アンチエイジング医学の見地からも非常に有用であることは周知の通りである。

 しかし、美しい風景や素晴らしい作品や音楽に接して感動し感銘を受けることも大切であるが、日々の診療、手術や雑務などに埋没されながら、また、受動的な感動にもやや物足り無さを感じる様になり、甲子園での高校野球観戦や展覧会やコンサート等からもすっかり足が遠のいている今日この頃である。このような状況の中でも毎日の診療や手術の技能がわずかーミリずつでも進化を続けられるように努力や創意工夫を図ることも能動的なアンチエイジングとして有用ではないかと考え、実践している。

 因みに、副交感神経の働きを高め、自律神経のバランスを整える研究の権威である順天堂大学医学部教授の小林弘幸氏の報告でも、目標や高い志を持って、能動的な努力を続ける行動は健康や長寿、そしてアンチエイジングに有用であることが判明している。一例として、「富獄三十六景」 などで知られる浮世絵師-葛飾北斎もそのひとりである。北斎は、江戸時代後期に生きた人物で、卒寿 (満88歳) で生涯を終えたが、記録によると北斎は、70歳になっても80歳になっても大志を持って、「絵がもっと上手くなりたい」~「まだまだ上手になりたい」とひたすら思い続けていたそうである。そして、その死の間際にも、「天がもしあと5年、自分の命を長らえてくれたなら、必ずや本物の画工になれただろうに」と伝えられている。高い志に向かう並々ならぬ情熱が北斎の卓越した生命力の根源になったものだと考えられる。

 また、日本で最初に正確な日本地図を作製したことで知られる伊能忠敬も当時としては非常に高齢の満74歳という長寿を全うしている。彼が日本地図作製のために果てしない測量の旅に出たのは、隠居して息子に家督を譲った50歳を過ぎてからで、この測量のために全国の果てしない旅に出たその過酷さは、おそらく現代の私たちの想像を遥かに超えたものであったろうと思われる。しかし、自らの高い志のためにひたすら歩き測量を続けたことが彼の生きる力を最大限に発揮したのでは無いかと推察される。

 このような偉大な先達を見習い、私自身も少しでも外来診療や手術が上手くなることを願い、日々微力ながら努力を試みている次第である。外来診療においても他業種における “営業の神様" と讃えられる人の著書やDVDを起床時と就寝前に視聴して、外来診療のヒントにしている。これにより、これまで重視していた病状説明や治療の必要性と方法などの詳細説明のみならず、対面時の最初のアプローチと良好な人間関係を瞬時に構築するその秘訣と重要性を学ぶことができ、自分自身も日々笑顔で気持ち良く診療を続けることが出来るようになった。

 また、手術でも新しい手技をより安全に患者様に施すため、学会講演や手術書とDVDも繰り返し視て修行に努め、実践面でも両手が上手に共同して使えるように左手でも食事をするよう心掛けている。

 そして、毎日の診療や手術の中で今回一日で最も反省すべき点や創意工夫が功奏して良かった点と明日の目標を音声入力しておいたものを文章化させた “診療向上ノート"として日々記録を続け、少しずつでも進化を続けたいと考えている。

 また、母校での研究面でも、先行研究の2番煎じではなく、今まで世界的にも報告されていない新研究を手掛け、若干の苦労の末に国際的な新知見を得て、その学術論文がアクセプトされた時の喜びも一入である。

 今後の医療情勢も厳しさを増し、さらに、TTPヘの参加交渉など、我が国の誇る健康保険が崩壊しかねない危機を孕む状況の中では、規模の拡大などではなく、人的サービスとソフトの充実が賢明であると考えられる。そして、これからもずっと患者さんと共に喜び、共に歩み続けるために微力ながら自分なりに創意工夫の努力を続けていきたいと思っている。

笑顔でニコニコ、ゆったり深呼吸法
H24年3月29日 宇医会報より

 近年、一般の読者向けに専門医による解りやすい健康書が多く出版されている。最近も、私の母校の数年後輩の教授小林 弘幸氏が『なぜ、「これ」は健康にいいのか?−副交感神経が人生の質を決める−』(サンマーク出版)を出版して、既に30万部を突破し話題になっている。学生時から互いに運動部で活躍して著者本人をよく知っており、早速購読してみた。医師であればすでに周知の通り、小林氏は現在のストレス社会において自律神経のバランスが交感神経に大きく傾きがちなため、副交感神経を適度に高い状態に保つことが健康な人生を生きることに繋がり、しかも、自己能力を最大限に発揮できる鍵であると説いている。すなわち、副交感神経の働きを高めることによりリンパ球数とその活性が増し、また、体のライフラインである血流を良好に保つことで身体を構成する60兆個の細胞の機能を維持し、自己の持てる能力を充分に発揮することができると説いている。そして、具体的にはゆっくりした動作を意識し、ゆったりとした深い呼吸法と笑顔で過ごすこと、また、腸の働きを整えることが大切であると述べている。さらに、これまで良いと言われているヨガや一流選手の歩き方、また、体に良い運動法や呼吸法、食事の仕方や睡眠のコツなど健康に繋がる副交感神経を高める秘訣を具体的に解りやすく解説している。おまけに、著者は日本テレビ系の「世界一受けたい授業」にも出演して反響も呼び、彼の診療する母校での「便秘外来」は予約が約3年待ちでずっと満杯とのことである。この著書を読みながら以前から同様の理論を論じている医師で、新潟大学の安保 徹教授の交感神経過剰となるストレス社会において顆粒球が著明に増えて活性酸素が多く産生され、リンパ球が減少し、かつ体温も低下して癌などの生活習慣病に罹りやすくなる事を説いた著書を想い出したが、安保氏の場合は抗がん剤やステロイドを含め医師が処方した薬をすべて止めるように指示したり、また、手術や化学療法や放射線療法は癌になっても受けるべきでないなどと極論を提唱して問題となった。これに対し、小林氏の場合は日常生活の中で比較的受け入れ易い良い生活習慣を挙げてそのメリットを解りやすく解説して書いているのが特徴である。すなわち、小林氏の場合は、安保氏のような過激で偏った持論を押しつけるのではなく、受け入れ易い日常生活習慣の改善についての解りやすい解説が特徴的である。この著書を読んで、私も再度知識の整理と参考になったと同時に、一方では、流石に大学教授のため、「言うは易し」であり、その実践の為には生活習慣の改善と共に日々の努力と工夫が必要であると感じている。例えば、ゆったり深い深呼吸を行う為にも、正しいS字状の姿勢を保つことが必要であるが、現代社会ではC字型の前肩・猫背の姿勢の方が激増している。このような状況の中で、正しい姿勢を保つための大胸筋や肩甲骨周囲の筋肉、そして大腰筋の鍛錬が日々のウォーキングなどと併せて特に必要である。さらに、副交感神経を高める方法についても、より有効にかつ確実な実践方法があることを自分自身で確信し、現在自身で実践中である。そして、このような成果を集めて小林氏の著書をさらに進化させてさらに解りやすく実践的な著書を執筆したいと考えている。私自身も以前から医師として診療時にも笑顔で診療することで病気の治癒が促進される事をしばしば
患者さんから学んだり、また、ゆっくりした口調で解りやすく説明することでより良いインフォームド・コンセントが得られる事も日常診療の中で多く経験している。さらに、診療時にも副交感神経を高め、心身を整える方法を自分なりに実践中である。また、これまで自分の診療や手術で良かった手技と工夫点や逆に反省点、さらに悔しかった事やその対策をその都度音声入力で診療向上ノートとして記録してきたが、今後はこの診療向上ノートを毎日記載して、@その日最も反省すべき事、Aその日最も感動した事や良かった事、B明日への目標を記録することで、60兆個の自身の細胞を明日に向かって奮い立たせるように努めていく次第である。当院もお蔭様でもうすぐ開業17年目に入るが、地域の先輩の先生方に比べればまだまだ若僧である。この為、今後の工夫点や改善できる点もまだ数多く、焦らずゆったりと一つ一つ改善して、一歩一歩向上を目指して努めて行きたいと考えている。そして、今後も厳しい医療情勢が続く中で、患者さんと共に歩み、共に歓んで治療に努力して行ける様に「患歓力」を涵養できるような診療を目指すためにも、自分自身も副交感神経を整えて、ニコニコ笑顔でゆったりと深い呼吸とゆっくり会話を意識しながら、日々の診療に努めて行きたいと思っている。

学会講演のご報告
H23年11月6日 村上茂樹院長が第24回日本トレーニング科学大会
(早稲田大学・東伏見キャンパス記念講堂にて開催)において、学生スポーツ選手における視力矯正方法の調査やドライアイ症状についての調査研究を世界で初めて行い講演致しましたのでご報告致します。

(写真は、日本トレーニング科学大会抄録要旨掲載前にて撮影)

(クリックするとPDFファイルでご覧頂けます)

開業医人生の中で感じる「予感と発想」
(宇医会報より)

村上茂樹開業医人生も、早や16年目を迎えたが、先輩の先生方に比べれば、まだ若僧である。そんな若輩の私でも、病状が気になる患者さんの事が自分の潜在意識の中に日々存在して微妙な予感が当たるのを以前からよく経験している次第である。ある日、大学病院に紹介した患者さんの結果が気になっているとその当日に来院して下さったり、前夜のジョギングの中でふと浮かんだ手術患者さんが翌日に来院されるといった具合である。例えるのも僭越ではあるが、当地出身で"打撃の神様"と讃えられた元巨人軍・川上哲治氏がよく経験した「好調時にボールが止まって見える!」という感覚や桑田真澄氏がPL学園時代の夏の甲子園での無死満塁のピンチに小フライをダイブキャッチして三重殺を成立させた時の「ゾクゾクする予感」などもこれに通じるものが有るのではないかと思う。このような、予感や微妙かつ繊細な感覚は開業医にとって知識・技術の修得と共に非常に大切な生命線であり、体調を整え平常心で診療に日々精進を続けていくことで、この感覚を今後も大切に持ち続けていきたいと考えている。そういえば、まだ私が小学生らも「少しおかしいな」という微妙な予感のもとに重病の兆候を察知した話を子供心ながらの時分に両親かに聴いていたことを思い出す。また、「ムンテラ」という言葉を聞いたのもその頃である。開業医となった現在でも非常に大切な治療であり、日々の診療の中で気付いた「ムンテラ」の新しい手法のヒントや思い付いた診療手技のアイデアを録音マイクに音声入力しておき、それをスタッフが文章化して"診療・手術向上日誌"として新手法や発想を積み上げていく試みも楽しく続けている。また、学会や講習会でも、出席だけして聴き放しにせず、テキストやノートを帰途の飛行機や新幹線の中で繰り返し読み直して診療に役立つ知識や技術の「引き出し」を増やすよう努めている。昨今の厳しい医療情勢においても、このように奥深く素晴らしい開業医の仕事の中で患者さんを大切に、少しでもより良い日々の診療が出来るよう精進と工夫を心掛け努めていきたいと考えている。

「計画停電下での診療の対処法」
(宇医会報より)

東北・東日本大震災による原子力発電の危機管理が問題となり、九州でmお原子力発電所の運転再開延期により、電力需要が著増するこんなつの計画停電実施の可能性が懸念されている。しかし、計画停電が実施される場合、その時間帯を潔く休診にすれば済むという単純な問題ではないのは周知の事実である。
 当然ながら他科と同時に、眼科診療においても手術や光凝固治療はもちろん出来なくなるだけでなく、消毒・滅菌業務にも大きな支障とリスクをきたし、外来診療も最低限のレベルでしか行えなくなる。このような経緯から関東地区の同業の医師からの情報や教示により、計画停電時の外来の診療についての対処法を考察してみた。
 A.計画停電時に休診するばあい
@計画停電が午前もしくは午後の診療にかかる場合には半日単位で休診する。A計画停電の予定がある場合、予め医院入口や受付に掲示を出し、受付時にも計画停電の可能性を話し、計画停電開始次第診療を終了することを了承いただいた上で、待たれる患者さんについては診療を受け付ける。B計画停電が予定された場合、基本的にはその時間帯を休診と案内した上で、医師ならびにスタッフは待機し、計画停電が回避された場合には診療を実施する。
 B.計画停電時に診療を行う場合
@計画停電中は、薬剤処方を首都した診療で対処し、レセコン等は使えないので会計は手計算とする。A計画停電中に外来診療を行う場合は、手持ち細隙灯顕微鏡や直像眼底鏡等での最低限での医療器具のみで診療を行う。さらに、小型自家発電装置がある医院の場合でも、レセコンや薬剤処方箋の発行だけでも行えるようにし、もし余力があれば最小限の機器だけ稼動させながら、他は前途した充電できる最小限の手持ちの器具のみで最低レベルの診療で対処せざるを得ないようである。
 また、地震時を想定した患者さんとスタッフの避難訓練の実施も直近に必須である。さらに憂慮されるべきは、大震災後の税収著減を補うための増税と景気のさらなる長期の低迷悪化による税収減と震災復興費などの支出の著増により、健康保険においても70歳から75歳未満の高齢受給者の一割負担の据え置きが解除され、来年度以降本則通り2割負担とされるなどの患者負担増や保険点数の切り下げの可能性も指摘されている。
 このような厳しい医療情勢においても日々創意工夫しながらスタッフと共に患者さんに笑顔で気持ち良い診療を続けることが出来るよう微力ながら努力を続けていく所存である。

「医療における笑顔の活用」
(宇医会報より)

笑いや笑顔の効用として、既に周知のとおり、食後の血糖上昇やNK細胞活性の低下を抑えるのに有用であることが報告されている。「笑いと遺伝子」の研究でも著名な筑波大学名誉教授の村上和雄博士によれば、人間の遺伝子は、普段3%程度しか働いておらず、他のほとんどが眠った状態にあるとのことである。これらの眠っている遺伝子にプラスのスイッチを入れて活性化させるコツは、「笑う」、「感動する」、「他の為に役立っている」、「褒められて認められる」などが有用であるとのことである。  また、人間には、「ミラー細胞」といって、無意識の内に相手の表情に応じて相手が笑えば自分も笑い、相手が怖い顔や怒った顔をすれば、同様な評定をするというように、相手の表情を無意識の内に鏡のように映しだして指令する細胞が古い脳の中で働いていることが判っている。  一方、最近の研究では、意識して笑顔を作ることで、表情筋が刺激されることにより、気分を明るくし、高揚させる脳内ホルモンが分泌されることも報告されている。このような笑顔の効用を医療にも活用するため、私どもも毎朝始業前に職員と一緒に笑顔の練習を行なっている。  最近の全国調査でも、年齢を重ねると共に笑顔でいる時間が減少していくことが報告されており、特に、男性の場合は女性に比べて笑顔が少なくなっていることも明らかになっている。すでに、デパート、金融機関等はもとより、鉄道会社やファミレス、ファストフード店など、多くの企業で笑顔の練習を取り入れており、始業前に笑顔を撮影して、社員の笑顔度を評価する機器(スマイル・スキャン)も、これらのサービス業などの企業を中心に急速に導入され始めている。さらに、心からの笑顔を作れるようにするために、自分なりに意識していることは、@良質の睡眠をとるよう日々努めるAスタッフと共に安全確実な診療を行えるよう院内のコミュニケーションやスタッフ教育や工夫と時刻集を続けてゆくB診療への集中力を損なうようなギャンブルや株などには手を出さないC心身の平静を保つバッハなどの音楽を聞くD心身の健康の維持のため、朝夕の適度のジョギングや体幹のインナーマッスルなどの適度の運動を継続するなどにより、心身の体調の維持と意識の向上に努め、より健やかで爽やかな笑顔でスタッフと共に診療を続けられるよう図っている。  厳しい医療情勢が続く昨今ではあるが、医療現場でも笑顔の効用を上手に活用しながら、患者さんやスタッフとの良いコミュニケーションに努め、より充実した診療と手術治療にこれからも努めていきたいと思う。

「学術講演のご報告」
(宇医会報より)

当院の村上茂樹院長が2010年10月16日(土)に、伝統と歴史に輝く第 250回熊本県東方医学研修会に招待演者として招かれ、熊本市国際交流会館 にて「眼と体のアンチエイジング」というテーマで特別講演を行いました。 最新の新しい知識について優しく解り易い説明が高く評価され、多くの聴衆の 方からご好評と共に熱心なご質問を頂きました。 今後も、著書の執筆と共に、眼とカラダの若さを保つアンチエイジング医療の 普及に努力して参る所存です。

 

「超高齢者の患者さんから学ぶ」
(宇医会報より)

超高齢化社会が日本にも到来し、百歳以上の方々が百万人を突破してすでに久しい。そして、百歳以上の超長寿者の方の男女比が1対10と、女性が著しく多くお元気であることに改めて驚かされる。このような経緯から、私も日常の外来診療においても、超高齢者の患者さんとお話し、その健康長寿の秘訣をお伺いするように努めている。そして、このようなお元気な健康長寿の高齢者の患者さんの特徴として、明るく前向きな性格で、くよくよせず、朗らかな方が多いように思う。また、これといった大病も患わず、肥りすぎでもやせすぎでもなく、タバコも吸わず、大酒も飲まず、生涯にわたる生き甲斐持っていて、その人なりに毎日の運動を欠かさず続けておられることが共通する特徴であると推察されるのである。小院に毎月来院される九十七歳のM・Fさんは、要介護度もまだ要支援で、一人暮らしでほぼ自立しておられる患者さんだ。週3回の通所リハビリでカラオケを歌うのが楽しみで、しかも、毎日午後の定時になると手押し車でお気に入りのコースを散歩をするのが健康の秘訣だそうである。一人暮らしも気にせず、非常に朗らかで明るく、くよくよしないいつも前向きでお元気な方だ。ヘルパーさんが週一回の掃除と買い物をしてくれるので、あとは自炊で困っていないとのことである。しかも、近くに娘さんがいて、時々面倒を見て下さるとのことだ。そういえば、プロスキーヤーとして百歳近い健康長寿を保った三浦雄一郎氏も、スキーの技術の錬磨と研賛に励み、世界でも最高齢者としてエベレストからの滑降を遂行し、生涯を通してスキーに生き甲斐を持ち、そのために、足腰を常に健康に保つ独自の体操や筋力トレーニングを欠かさず、自分の健康長寿のための自炊料理も工夫を重ねて調理されていたという。因みに、「アンチエイジング医学の基礎と臨床」(日本抗加齢医学会編集)においても、健康長寿者の特徴として、大きな疾患を病っておらず、太り過ぎず、大酒を飲まず、喫煙せず、朗らかでストレスを乗り越えられる前向きな強い精神力を持ち、適度の有酸素運動を継続して行っているケースが多いと記されている。このため私も、朝2キロ、夜5キロの適度のジョグとパーソナルトレーナーの指導による毎週の体幹のインナーマッスルの鍛錬を継続するようにしている。さらに今後も、新しい医療知識や手術手技の習得をさらに進め、年1回の学会講演と英語研究論文発表や著書の執筆なども楽しみや生き甲斐として続けながら、少しでも患者さんのお役に立てるよう努力を続けていきたいと考えている。そうして、開業医としての診療の中でも、このような超高齢の健康長寿の患者さんに学びながら、日々の診療にも還元し、また、自分自身の健康長寿にも生かしていきたいと思う。

 

「体幹の「インナーマッスル・スロトレ法」
(宇医会報より)

DT作業や携帯メール等で眼を著しく酷使す る現代社会において、頑固な眼精疲労や眼窩神経痛など の症状を訴える症例が、周知の通り著増している。
このような症例の特徴として、首と肩が前出した前首・ 前肩の猫背姿勢で、下腹だけポコッと突出した「C字型」 体型を合併したケースが、その大半に認められている。
このような姿勢の患者さんが著増した原因として、第一 に、VDTや携帯メールのような前屈みの作業が増え、 肩甲骨周囲の筋肉を大きく動かす生活動作が極端に減っ ていることが考えられる。 さらに、第二の原因として、 体幹のインナーマッスル(深部筋)である大腰筋の緩み と衰えが指摘されている。
大腰筋とは、ご存知の通り、 背骨と大腿骨と骨盤とを繋ぐ筋肉であり、その機能とし て、

@背骨を内側に引き寄せて自然なS字形の姿勢を保持する
A骨盤を支持して骨盤の前傾を保ち、腹部や腰部 と臀部の筋肉を働かせて引き上げる
B股関節を屈曲させ て大腿を引き上げるなど3つの大きな機能を持っている。

そして、この大腰筋が弛んでしまうと骨盤が後傾して内 臓が下垂し、下腹がポッコリ出て、猫背気味になり、し かも、そこに内臓脂肪が溜まって、メタボリック症候群 に陥り易くなることも指摘されている。
このような患者さんに学びながら、私自身も眼科の外来 診療や手術等で、前屈みになりやすい職業環境にあるた め、朝夕のジョギングに加え、専門のトレーナーを付け て約1時間の体幹筋のトレーニングを毎週継続するよう にしている。
正しい姿勢を保つために、肩甲骨の可動性に関連する僧 帽筋や広背筋、そして、体幹深部の大腰筋、また、大胸 筋や腹筋、大腿四頭筋等のトレーニングを、比較的軽い 重量負荷で行っている。
さらに、体温を上げて脂肪分解を促進すると共にトレー ニング効果を上げ、疲労回復も早める12種類のアミノ 酸をトレーニングの前後にたっぷり摂取するようにして いる。
そして、深いゆっくりとした呼吸と共に軽い負荷による ゆっくり筋トレ(スロトレ)を行っている。 この「スロトレ法」とは、東京大学院の石井直方教授が 提唱している方法で、比較的軽い重量負荷で、動きを止 めずに(ノンロック)、ゆっくりとした筋トレを続ける ことで、筋肉中の乳酸などの疲労物質が著明に蓄積しや すくなり、軽い負荷にも拘わらず、成長ホルモンの分泌 と脂肪燃焼を促進することが、研究でも明らかになって いる。
さらに、筋トレと有酸素運動の順番においても、先に筋 トレを行うことにより、その後の有酸素運動での脂肪燃 焼効率が1・5倍にも増加するという新知見を得て、実 践している。

これからも、患者さんと共に歩み、眼と体のアンチエイ ジングのための正しい生活習慣についても、今冬に上梓 予定の著書の中でも啓発しながら、開業医としての仕事 の充実に努めて行きたいと思っている。 (村上茂樹)

『私の人生最高の恩師への追想文』
(追想文集が本年5月下旬発行予定)

 人生において、恩師を持ち、人生の指針をご教示頂くことは、非常に幸せなことだと思います。
私には、人生最高の恩師がいらっしゃいました。

日本眼科医会前副会長で、日本の眼科病院として最も歴史のある、東京・井上眼科病院の故・井上治郎理事長先生です。
井上治郎先生の追想文を執筆致しました。

『人生最高の恩師に報恩感謝を誓って』
医療法人 湘悠会 むらかみ眼科クリニック
                   村上 茂樹

 今も心に刻む先生の教え井上治郎前理事長先生は、私にとって、これまでの人生で、最高の偉大な恩師であり、今も先生の教えを心に刻みながら、日々の診療と人生を歩んでいる次第であります。
かつて、先生のもとで、5年間に渡り勤めさせて頂いた井上眼科病院において、常々、ご指導を頂いた治療方針に基づき、開業後も日々診療に励んで参りました。
すなわち、「常に患者さんの立場に立って親切に診療にあたり、患者さんに病状と治療方針をよく説明し、評価の定まった安全確実な診療を行い、あせらずに一歩一歩、休まず診療を続けていく」と言う教えを、日々実践して参りました。
そして、井上先生が朝7時から夜11時まで、ずっと連続して休まずに外来診療と手術を行われ、さらに、眼科医会の会議にも臨まれる姿は、今も私の心のスクリーンに焼き付いています。
そして、先生は、数多くの手術を行いながらも、常に「外来が診療の基本であり、外来をできるだけ休まずに診療することが開業医の使命である」と。
また、ある時には、「開業医は、所詮、中小(零細)企業である。
中小企業とは、常に先頭に立って、死にもの狂いで走り続ける人間がいなければ、その存続と発展は望めないものである」とおしゃっていたことも心に残っています。
同時に、「患者さんの眼の病気を治すのみならず、患者さんの心も治す」ということについて、よくご指導をいただきました。
すなわち、患者さんが失明の不安に陥ることなく、少しでも安心して治療に専念する心理状態を保てるよう必ず優しい救いの言葉を与え、心を安らかにさせ、そのうえで 治療を進めていくという点であります。
このような先生の教えを旨として、開業後の13年間を病気などでも休むことなく、日々診療に励むことができました。
より安全確実な手術を追求されてそして、「手術もやたらと多くの症例に手を出すのではなく、良く適応を選び、一例一例、確実に手術を行う。
一例でも悪い症例を作らないように術後の管理もしっかり行う。
」という教えを守り、開業後も無事に手術を実施して参りました。
さらに、手術治療での術前の慎重な手術適応の決定と手術後の入念なアフターケアの重要性についてもよく説かれ、同時に手術手技の面でも、より安全確実な方法で絶対に落第点をとらない手術を行うよう親身な指導を頂きました。
私の在職時は、白内障手術においても嚢外摘出術(ECCE)から水晶体乳化吸引術(PEA)に移行する時代でありました。
このため、まずECCEを確実に修得できるよう教えて頂き、その後、症例を慎重に選びながら、PEAを安全に修得すべく努めさせて頂きました。
このように多くのECCEの手術も実施した経験は、地方で開業した私が、今もなおよく遭遇する高度に進行した難症例の白内障に対しても、安全確実な手術を遂行する意味で、非常に役立っています。
同時に、白内障手術時の後嚢破損防止の技術についても、先生から直々に入念な指導を仰いだお蔭で、開業後も既に8200眼以上もの白内障手術を無事に実施でき、幸い重篤な合併症も経験せずに済んでいます。
しかし、「手術の評判は、口コミで広まるというが、良い評判には10人の新しい患者さんが付き、悪い評判には、100人の患者さんが来なくなる。
」と説かれた先生の言葉の重みを、開業後も、いつも思い出し、今でも常に認識しています。
さらに、手術後のアフターケアも、入念に行ってゆくことで、常々先生が説いておられた「患者さんともに歩み、患者さんとともに喜ぶ」という開業医の仕事の奥深さを、少し実感できるようになりました。
有難かった研究のご指導学会発表や講演についても、スライド原稿の構成のコツや主旨がよく理解でき、聞いて役立つ内容、そして聴衆に訴えかけることのできる話し方や原稿のつくり方に至るまで、先生から直々に、懇切丁寧に指導を頂きました。
研究テーマの選定についても、その研究の必要性と学問的価値を入念に勘案され、研究方法においては、その普遍性、客観性、再現性を特に重視されました。
先生のご指導のお蔭様で、在職中に数多くの学会講演と共に、学位論文や海外論文を含む多くの論文発表も行うことができました。
開業した後も、日本眼科手術学会や日本眼内レンズ屈折手術学会などで、よく講演させて頂きました。
さらに、一昨年の春より、母校の客員准教授も拝命後、約1年半の間に、英語論文2編と日本語論文3編の発表を含めた研究活動が、開業医の立場で出来たことも、これまでの先生のご指導とご教示の賜物であると感謝致す次第です。
先生との九州温泉地巡りの旅と共著書の上梓開業後しばらくして、先生へのご恩返しにと、8年程前に、ご多忙の中、早春の九州・大分の地にお招きして、名物のふぐ料理のコースとひれ酒をご一緒に賞味し、翌日は、高崎山の猿山見物と五つの温泉地獄巡りの見物をしました。
特に、温泉地獄巡りでは、血の池地獄や海地獄、ワニ地獄など、数々の地獄巡りを一つ一つ熱心に楽しんで頂きました。
散策中に、視界を被って湧き立つ地獄の湯気に、「これは、蒸気罨法にも使えますね!」などと、談笑したことも懐かしい想い出です。
この旅行の後に、先生のもとで、同時代に勤務してご指導を受けた有志の先生で、『恩師・井上治郎先生を囲む会』を、毎年3月の先生のお誕生日の頃に、楽しいお祝いの会として、東京都内で開催するようになりました。
さらに6年前には、先生を長崎・雲仙の旅亭にお迎えして、第二回目の九州温泉地巡りの旅をさせて頂きました。
雲仙の乳白色の温泉と心が安らぐような庭園、そして、洗練された食事に感動しながら、翌日も平成新山などを観光して、先生のご満悦の様子を伺いながら、わずかながらのご恩返しができたことを、何より嬉しく感じました。
そして、先生をお見送りする直前には、丁寧なお礼の挨拶と共に、「そう言えば、『眼の成人病』という一般向けの家庭医学書を、現在の最新の医療も盛り込んで、先生と二人の共著で上梓したいのですよ。
」とのお言葉を頂いたのでした。
すでに、約30名近い医局員を抱え、多くの著名な眼科医との繋がりをもたれる先生が、もう開業して7年にもなる自分を、なぜ共著者に指名されるのかと理由をお伺いすると、「旅先でも早朝からジョグに励む姿を見て、”ファイトの魂”に見えたからだ」との由でした。
そういえば、昔から人を持ち上げて、目一杯働かせる事も非常にお上手でした。
先生ご自身も、朝7時から夜11時まで、ほぼ休みなしに働き続ける方でしたが、人の能力を存分に発揮させ、無駄なく働かせる病院経営の神様でもあられたのです。
それからも、再々の執筆のご催促を頂いたため、自分も意を決して、眼病の解説書の執筆に取りかかることにしました。
私の担当分野は、「白内障」、「加齢黄斑変性」、「糖尿病網膜症」、そして、「レーザー光凝固治療」と「眼と体に良い栄養と生活習慣」についての5項目で、画期的な新治療や新知見が進んだ領域でもあり、休日は図書館にこもって、文献を当たりながら執筆を始め、先生の激励を頂きながら、どうにか無事に完成させることが出来ました。
今では、先生との共著書を上梓できたことが誇りでもあり、非常に良かったと思っています。
そして、その著書を自分なりに進化させ、一般の読者の方にも、さらに解りやすく柔らかくして、一昨年夏に2冊目の著書を、地元の新聞社から上梓することができました。
そして、さらに解りやすく、もっと多くの読者の方に読んで頂けるような『眼と体のためのアンチエイジング法』という家庭医学書の上梓を、今年冬に予定しています。
さらに、一昨年の春には、先生のお誕生日に合わせて、鹿児島・指宿温泉の特別な旅亭にご招待させて頂きました。
日韓の主席会議も開催されたこの客室殿の最上階から、広大な松林越しに錦江湾や大隅半島を臨む雄大な景色と朝焼けの風景は、まさに圧巻で感動的でした。
そして、砂蒸し風呂を含む14種類の温泉の全てに2日間でご入浴され、夜は、薩摩の郷土料理と地酒に舌鼓を打たれ、楽しく懐かしい会話も弾みました。
翌日は、恐竜「イッシー」で有名な池田湖畔を巡り、九州最南端の駅で開聞岳を間近に望み、さらに、知覧の特攻平和記念館にも足を運んで、憂国の特攻戦士達の姿に共に涙しました。
さらに、鹿児島市内に戻り、西郷隆盛の最期となった城山の史跡を訪ね、錦江湾越しに桜島を臨む「磯庭園」での散策も楽しまれました。

しかし、これが、先生との最後のご旅行となってしまい、今は、非常に残念で寂しい気持ちでいっぱいです。
先生のご教示を胸に平素から、先生のご教示は、端的で深く、時に、厳しいものでしたが、常に真にためになる本当の事を教えて頂き、感謝致しております。
また、決して突き離さず、いつも親身になって熱心に教えて頂きました。
私の場合には、「あせらず、のぼせ上がらず、できる事を地道に、足元から一歩一歩を確実に!」との旨を繰り返し、よく教えて頂きました。
そして、これからも、先生のご遺志とご教示を忘れず、その医療の精神を守り、今後も、若倉院長先生、宮永院長先生、井上賢治理事長先生のご指導とご高配を頂きながら、報恩感謝の心で眼科医として、そして、開業医としての人生を、一歩一歩、心を込めて懸命に歩んでいきたいと思っています。

*写真の解説
■5名の写真『恩師・井上治郎先生を囲む会』にて
  (平成14年3月15日)(左から井出先生、井上先生、村上、石井先生、藤田先生)
■2人の写真『第3回九州温泉地巡りの旅 鹿児島・磯庭園』にて
  (平成19年3月)(井上先生、村上)

 

平成19年9月16日

真夏の台風直下の学会講演』                       

 

昨年から、眼病の解説書を出すようになり、また、今年から、母校の大学との研究も始めるようになってから、他の学会からも、招待講演の話も頂けるようになった。

過日には、日本臨床細胞学会から7月14日の九州ブロック総会での招待講演のお誘いを頂いた。「いつも顕微鏡での仕事をされる医師やスタッフの方々に、眼に良い生活習慣や栄養療法について、約1時間の講演をして頂きたい。」と言われ、すぐに快く引き受けることにした。

平素の講演会などで質問する時も、まず最初に手を挙げてから、質問内容を考えるといういつもの性格からか、直前にならないと気合いが入らない。しかし、恩師の井上治郎博士のご教示を糧とし、講演のストーリーの展開をあれこれ考えながら、スライドの原稿を、少しずつ頭の中で練りあげ、スライド校正も、いつも通り1週間前までに終えることができた。4日前には「予演会」も無事に終了し、準備万端で、アシスタント役の友人と、当日は意気揚々と入鹿する予定だった。

しかし、予演会を無事に終えた翌日から、台風4号が講演当日の午後に鹿児島を直撃するとの情報が入り、愕然としたのはご想像の通りである。学会が中止になるのか、事前に事務局に問い合わせても、平然と「予定通り行う予定です。宜しければ、宿の手配をするので、演者の先生は、前日までに入鹿して下さい。」と言う。このため、日帰りでの講演を諦め、前日の診療を終えてから、夜半前に「つばめ」で入鹿し、城山のホテルに泊まることにした。

鹿児島に入ると、雨風も少しずつ強くなっているのを察したが、翌日目を覚ますと、やはり台風4号が直撃の様相を呈していた。

講演は、同日午後2時で、台風が最も接近する時間帯であった。

朝から、温泉で体を温め、講演原稿を繰り返し読みながら、一通りの最終校正を終えると、講演前にいつも行う儀式として、数十分のジョギングをすることにした。屋外はすでに嵐の様相を呈して不可能なので、広いホテルのフロアを往復しながら、いつものスウェットウエアでのジョギングで、心地よい汗を流し、リフレッシュすることができた。

そういえば、家内との出会いの地・横浜での学位研究の講演の時も、二人でよく訪れた「港見える丘公園」を走ったものである。

台風の中、予定通り昼過ぎに、県民交流センターの巨大な学会場に到着すると、手厚くおもてなしを受けた。

まるで、お殿様気分だ。参加者予定数は、医師と医療関係者を含め、約400名とのことであったが、当日は、JR、高速バス、航空機、そして、船舶が、共にすべて運休のため、約100名程度の聴衆であったが、会場内では、予定通り何もなかった様に行われているのが、かえって驚きであった。

そして、いつも通り、自分の持ち味を生かしながら、大きな声で解りやすく楽しく講演を終えることできた。

私の学会講演のルーツは、小学校2年生の夏休みの研究発表にさかのぼる。

両親の心遣いで、愚息が将来、学会講演をする際に困らないようにと、学会発表の手ほどきをしてくれたのであった。

そして、小2の時の研究発表で、金賞が取れなかった事もあり、小3になると発表前には、父親に連れられて、街を見下ろす小高い山の山中での発声練習を半日かけて行った。木々の間から見える初秋の萩の静かな街並みと蒼いコバルト色に輝く日本海が、まだ瞼に残っている。

そして、発表会の直前には、確実に暗唱するまで、飽きる程、発表原稿を音読させられた。

さすがに、原稿の暗唱には、子供心に辛いものがあった。遊び盛りの頃に、「どうして、なぜ自分だけ?」という思いが断ち切れずに、原稿の文字が涙でにじんで見える事もあった。しかし、そのお蔭か、今までの講演で“あがった”ことは一度も経験していない。

そんな遠い記憶と共に、講演終了後に、感謝状を頂いた時の気持は、まるで、かつての全校マラソンで優勝した時の表彰台の気分だった。そして、学会後の懇談会も、台風の余波などもろともせず、大勢が楽しく参加してとり行われた。最後には、「おはら節」を老若男女全員で踊り、楽しく閉会に至った。

学会発表の中での苦労は色々あるが、それを無事終えた時の達成感と歓びの一時を楽しみ、それらが、人生の軌跡の中で星座のように輝きながら想い出として繋がってゆくのも良いものだと思う。

これからも、両親への感謝と申し訳のなさを胸に秘めながら、今後の英語論文を含めた学会講演や、また、眼病の啓発書の執筆等も、日常診療に役立てながら、少しづつ楽しく励んで行きたいと思っている。

 

 

 

平成19年4月15日

心のメダル

 夏の「甲子園」が終わり、秋も深まり、冬の訪れの中で始まる学生の三大駅伝は、10月の出雲での全日本大学選抜ロードリレー、11月の伊勢路での全日本大学駅伝、そして、正月の「箱根駅伝」であるが、全ては、最後の「箱根」に集約され、前二者は、ただの前哨戦といっても過言ではないであろう。20年程前に、テレビ放映されるようになってから、平均視聴率も毎年30%近くを維持し、全国で4000万人以上もが視聴するというこの「箱根駅伝」も、かつては、一部の熱心な駅伝と陸上ファンのものでしかなく、NHKラジオの実況中継が頼りであった。

私の学生時には、体育学部の長距離の選手達とも同じグラウンドで練習でき、学部の壁を越えて、練習方法のみならず、競技への姿勢や考え方までもを身近に学ぶことができ、今でも貴重な心の財産となっている。自分の場合、肉親との死別を契機に、その悲しみを忘れるように、ひたすら毎日走り続けて練習するようになり、毎月の走行距離も600キロを超え、恩師の沢木啓祐教授(日本陸連強化委員長)より、箱根駅伝合宿への参加を二度お許し頂いた。この「箱根駅伝合宿」は、心身共に苛酷な実体験であった。

練習と共に合宿所の中でも、大会前日に登録変更されて付き添いに回った選手達や合宿所の一台きりのピンク電話の前で監督からのメンバー交替の電話をじっと待ち続ける補欠の選手達に気遣いながら、出走する選手達の体調管理やサポートに努め、微力ながらチームの二連覇に貢献できたことは、人生の宝となっている。

あの時から25年が過ぎた現在でも、冬の訪れと共に「箱根駅伝」が恋しくなり、12月の下旬に登録メンバーと区間配置が発表されると、各校の戦力分析や補欠からメンバー変更で出走する選手を予想するのが楽しみだ。このため、前夜の元旦は、明日のレース展開を予想して寝付けないのも毎年である。 

昨年は、母校のチームが、往路優勝を遂げ、大差で復路の8区に入ったが、主将がまさかの大ブレーキを起こして、夢遊病者のような足どりで辛うじて9区に襷をつないだものの、総合優勝を逃してしまった。

この無念さを晴らすため、今年は、総合優勝に立ち合うために元旦に上京した。往路優勝を遂げた夜、箱根の母校の宿舎にも入って、監督とも対談することができた。自分が前夜考えた往路の変更区間と変更選手はすべて予想通りであった。復路も、6区(山下り)の変更区間は合っていたが、まさか6人目の4年生を投入するという監督の今年に賭ける決意には驚かされると共に明日の完全優勝を確信できた。

「箱根駅伝」で大切なことは、戦前からレースを想定しながら、前半は設定されたタイムを守りながら走って後半に余力を残し、後半は粘れるだけ粘って選手の力のすべてを使い切りながら、ブレーキなく20キロ余りを走り切ることである。

私も、かつての箱根駅伝の合宿時に、夢の中で走った7区(小田原→平塚間21キロ)の湘南路での快走をイメージしながら、日々の長丁場の外来診療も楽しく行うようにしている。

 当時は、メンバー入りも、そして、優勝メダルも遙か遠い彼方にあったが、現在の開業医生活の中でも、自分の力量に応じたテーマを決め、その小さな「心のメダル」に少しずつ近づいてゆく達成感と充実感が、私は好きである。

今年は、昨年の著書の出版に続き、さらに解りやすい2冊日の「眼の成人病」の解説書の粗原稿の執筆も終え、また、東洋医学会漢方専門医の更新のための症例報告集も完成させることができた。

また、今年の4月からは、母校・順天堂大学のスポーツ健康医科学の客員助教授として、栄養物質の摂取時の動体視力に関する研究に参加させて頂けることにもなった。

そして、今では走行距離もスピードも、かつての半分以下となったが、朝日を浴びながらの朝練2kmと夜の本練5kmのジョグを継続しているお蔭で、体調を維持でき、一度も診療を休まず、体重も競技生活時のベストより2〜3kg重い程度だ。

今後の厳しい医療情勢の中でも、心身の養生と健康管理に努めながら、小さな「心のメダル」を追いながら、笑顔で楽しく、焦らず、開業医人生と研究生活のラップを刻んでゆきたいと思っている。

 

 

 

平成18年10月15日

ある再会の後で

 一昨年の仲秋の頃、先の日本眼科医会副会長をつとめられ、最も歴史ある眼科病院の理事長である東京時代の恩師を、お供の方と雲仙の旅亭に迎えて、かつてのお礼をさせて頂いた。

 乳白色の温泉と心が安らぐような庭園、そして、洗練された食事に感動しながら翌日も平成新山などを観光して、恩師のご満悦の様子を伺いながら、自分でも「最高の接待ができた。」と内心で自画自賛していた頃だった。

お見送りする直前に頂いたのは、丁寧なお礼の挨拶と共に、「そう言えば、『眼の成人病』」という一般向けの家庭医学書を、現在の最新の医療も盛り込んで、先生と共著で出版したいのですよ。」とのお言葉であった。

 現在すでに、約30名近い医局員を抱え、多くの著名な眼科医との繋がりをもたれる恩師が、もう開業して9年にもなる自分を、なぜ共著者に指名されるのかとお伺いすると、旅先でも朝からジョグに励む姿を見て、“ファイトの塊”に見えたからだと言う。

そういえば、人を持ち上げて、目一杯働かせる事も非常にうまかった。恩師ご自身も、朝7時から夜11時までほぼ休みなしに働き続ける方であったが、人の能力を存分に発揮させ、無駄なく働かせる病院経営の神様でもあった。

お言葉をもらった時は、最終回に逆転サヨナラ満塁ホーマーを浴びた気分で、さすがに返事を留保したが、その後、後日手紙でも丁重に辞退しても、年末の休診中にも自宅まで直々に電話を頂くに及んで、さすがに引き受けることになった。

しかし、いざ執筆を始めようとしたものの当初は、なかなか筆が進まず、本当にまいってしまった。というのも、頂いた私の執筆項目は、「糖尿病網膜症」「白内障」「加齢黄斑変性」さらに、「レーザー光凝固治療」「眼と体によい生活習慣と栄養」の5項目で、いずれも最近新しい治療法が開発された分野や新知見が認められた領域のため、新たな勉強が必要になったためである。

この為、覚悟を決め、誘惑や雑用から離れ無心で集中できる空間を求めて、休日は県立図書館に通って、午前中から夕方まで、机に向かうようになった。文献や同類書を参考にしながら、基本的な自分のスタンスを考え、構成の項目に沿って浮かんだ草案をメモしながら、粗原稿を書き始めた。

誘惑や雑用からも離れ、無心で集中して取り組んでゆく濃密な時間のなかで、少しずつ執筆の仕事も進み、「やれる!」という自信に加え、小さな達成感が感じられるようになった。

今までの気分転換は、毎日のジョグに加え、温泉の小旅行や高校野球観戦、観劇やコンサート程度であったが、気分転換にはなっても、達成感と新しい自分を発見できるものではなく、これは新鮮だった。

そして、夕方5時に図書館が閉まると、その後は、隣の青年体育館のロッカーで着替えて江津湖の周囲を約1時間ジョグするのが気分転換であった。いつもの友人との運動公園でのジョグとは違って、小さな達成感を味わいながらの江津湖のジョグは、また格別だった。

冬は梅の花を見ながら「冬来たりなば春遠からじ。」を実感することができたし、春は桜花のトンネルの中を走り抜ける心地よさを感じることができた。

また、夏の江津湖に映える夕日も素晴らしかったし、秋の早い夕暮れも少し感傷的にさせてくれた。そして、いつも病診連携でお世話になっている病院のH副院長ご夫妻にもよくお会いできた。お二人で並んで散策されながら、静かに語り合うお姿は憧れの未来像だ。そんなジョグの中で、潜在意識の中から、ふと上手い校正案が湧き上がることも多かった。

 昨年は、6月まで日本抗加齢医学会の専門医試験の勉強も兼ねており、ダブル勉強は自分にとって少しきつかったが、なんとか気合いと気力で乗り越えることができた。

また、頭に浮かんだ草案をテープレコーダーに音声で入力し、それを職員に協力してもらいワープロ打ちしていくディクテーション作業により、大幅に原稿の作成も捗り、本当にありがたかった。

執筆の過程のなかで、日常診療面でも解りやすいカラーの治療用クリティカルパスも作成することが出来た。さらに、手術方法にも新しい工夫を取り入れ、手技も僅かながら向上できた。そして、自分が心に描いた文章やアイディアが具現化され、多くの方々の眼病の啓発のために少しでも役立てることも嬉しい。そんな様々な思いの詰まった著書も、いよいよ9月中に発刊となる。

そして、現在は、別の出版社からイラストを多く用い、Q&Aシリーズや患者さんの体験集、また治療のエピソードも加えたさらに解りやすい2冊目の眼病の家庭医学書を執筆中である。

今後の厳しい医療情勢の中でも、患者さんに喜ばれ、自分も楽しく診療を続けられるよう、少しずつ勉強を続けたいと思っている。

 

 

 

平成17年4月15日

三十余年目の出発 〜私の中・高寮生活時代の想い出より〜

 

 昨年、愚娘が中学に入学した頃から、自分の同年代の頃をよく思い出すようになった。私は、小学校まで山口県の山陰の萩地方の小さな町で育った。小5になる春頃より、算数の教科書の“先取り学習”に興味を持ち、勉強を楽しく感じ始めていた。その頃、地区の開業医のご子息が、鹿児島の有名私立中学に入学されたのを契機に、同地の医師会では、県外の私立中学進学ブームが起こった。こうして、小5の秋になると両親が私にも中学受験を勧める様になったが、折角自分なりの“先取り学習法”が当たった得意の時分で、いきなり受験参考書を読んでもさっぱり解らず、すぐに嫌になった。医師会長の父からは、「俺の顔に泥を塗るな!」と怒られ、母からは、「親の心子知らず」と嘆かれた。ただその反面、子供心ながらに田舎町の閉鎖社会には辟易していた部分もあった。

 小さな頃から、いつも医者の子として特別視され、飛び級の神童で元海軍軍医の父や町の初代首長で医師の祖父とよく比較された。そして、当時では、洒落たセンスの学校舎やクリスタルなデザインの校章にも魅了され、この閉鎖社会から“憧れの新天地”への脱出を夢見て中学受験を決意した。こうして、先輩に続き、同じ境遇の同級生も広島の私立中学へ、私は四国・松山の私立中学へと旅立った。

“新天地”の寮では、中高生約400人が生活していた。食事や規律、そして、風紀も厳しかった。テレビは30分以内、電話は赤電話一台で、勿論上級生が優先だった。しかし、そんな中でも“寮友”達は、笑いと夢で互いに励まし合っていた。「俺は、脳袖経外科の専門家になる!」「自分は、京都に行って海外留学する!」「俺は、大蔵省の官僚になって日本経済を動かす!」などの夢を、“寮友”達は、本当に全て実現していったのだった。彼らの意識レベルは高く、考え方もすでに大人で、ハングリー心も強かった。その面、自分は、稚拙にも親に反抗することを生き甲斐にして不勉強を重ねた。

一番きつかったのは、休暇を終え、休み明けの試験を前に帰寮する時期だった。帰寮する冬の日の朝、美しい海岸線を通り、山口線の超発点の益田駅に向かう途中、荒海の日本海から、雪混じりの風と波濤が押し寄せる。そんな中を両親は、駅のホームの車窓まで見送ってくれた。試験前で心は泣きたい気持ちだが、最後まで気丈を装う私を笑顔で見送ってくれるのだった。そして、列車は、渓谷沿いに中国山地へと登って行き、白銀に染まった小京都・津和野を過ぎて、山口駅へ滑り込み、ザビエル聖堂のチャペルから鐘の音が車窓にも届いてくる。両親がいつも学会で連れて行ってくれた憧れの瀟洒な街だった。そんな懐かしい想い出や郷愁が山口線の車内で胸中に去来していく。そして、終点の小郡(新山口駅)に近づくと山陽の平野が広がり、日も昇って陽光が差してくる。小郡駅での乗り換え時に、今も変わらぬ味の立ち食いうどんで、体を温め気合いを入れ直す。そこから、山陽線に乗り、徳山の石油化学コンビナート群を過ぎ、柳井港からの連絡船で四国・松山に渡る計6時間半の長旅だった。連絡船のフェリーのデッキに出て、瀬戸内の海と島並みを眺めながら、「これから、また一人でやっていくぞ!」と腹を決める。いつも、そんな「桶狭間の戦い」の繰り返しだった。 

この寮生活の体験は、開業医の「自ら決断し、自ら行動して、自分で責任を取る」という生き方の修練にもなった。また、食事や規律なども厳しく、やっとの思いで親が寮費を払う友人もいて、私も小遣いは月二千円程度しか使えなかった。この「清貧を宗とし、驕れる者は久しからず。」の教えのお蔭か、開業9年目となる現在も、自宅は中古の賃貸マンションで、自分の車も持たず、ブランド品は身に付けない。時計は千円デジタルでタバコも吸わない。それでも「寮生活」に比べれば天国だ。また、走ることの楽しみを知り、陸上競技の中・長距離に親しんだ。その後に迎えた肉親との死別も、“走る”ことで乗り越えることが出来た。現在も、朝夕で9kmのジョグを毎日楽しんでいる。

そして今、自分もあの時の両親と同じ年代になり、はるばる松山にまで送り出してくれた両親の気持ちがようやく心から解るようになった。あの状況の中で、最良の選択をしてくれたと思うし、もし自分が親でも同様に決断したと思う。これは、治療方針の選択と同じで、「タラ、レバ」は、結果論でしかないのだ。しかし、身を切る思いで折角の好環境に送り出してくれた両親への申し訳なさと稚拙だった自分への悔しさと不完全燃焼感は、ずっと心の底に淀んでいて消えなかった。だが、今は、その思いをエネルギーに変えて前進しようと考え努めている。                  

 現在は、自分にとって三つ目の専門医試験である日本抗加齢医学会の専門医試験の勉強に取り組んでいる。その分野は、基礎医学に始まり、内科全般から整形外科、皮膚科、眼科、スポーツ医学、栄養学にまで広範囲に及ぶが、今後、急激に進む超高齢化時代には、眼科医にとっても必須の医学であり、少しずつ学んでいる。それに併行して、一般の方向けの啓蒙書である「眼の成人病」というタイトルの本を、東京時代の恩師と共著で執筆中でもある。このため、休日も、県立図書館で勉強するようになった。誘惑や雑用からも離れ、無心で集中できる楽しさは、あの小5の時の“先取り学習”と同じ充実感だ。夢中で新しい知識の世界に滑り込んでいく楽しさ、そして、新しい知見に触れた時の充実感は、本当に心地好い。8年前の東洋医学の時は、いつもの「桶狭間の戦い」だったが、今度の初夏の「上洛」までは、こうしてゆっくり学びながら、少しずつ達成感を楽しみたいと思っている。また、本の執筆も出版記念パーティで恩師との祝杯を挙げる瞬間を楽しみにイメージしながら、根気強く頑張っていこうと思う。今年1月には、全国で1500万人以上もが悩む「ドライアイ」の患者さんへの画期的な治療用装器具を2種類考案し、特許申請して受付受理された。この様に、自分の心に描いた文章やアイディアが具現化され、世の中に役立っていくことも純粋に嬉しい。

 幼少時から、いつも「あなたは、開業医になるために生まれてきたのよ。」と優しく励ましてくれた母が、「人生は悠然と」との自書を贈ってくれた。その言葉をいつも忘れぬ様に、医療法人名にも「悠」の文字を入れた。人生には、三十余年も経ってやっと解ることもあるが、それでもいいと思う。そして、今後の健康保険制度の改悪や株式会社の参入など、どんな「医療の厳冬期」になっても患者様と共に歩み、笑顔で日々楽しく診療を続けられるよう、自分なりの努力を続けていきたいと思っている。

 

 

 

平成16年10月15日

音楽による抗加齢効果

 

 開業後も日々の診療の合間に、各種ジャンルの音楽をよく聴いて楽しく過ごしています。

 当初は、20代の頃によく聴いた竹内まりあ・松任谷由実や浜田省吾やサザンオールスターズ等の曲を学生時代の思い出と共に聴いていました。また、下積みの研修医時代にも、「今に見とけ!」と闘志を燃やしながらバナナラマの「ヴイーナス」などの曲を聴いたり、東京や横浜のディスコで踊ったことも、昨日のように思い出されます。

 音楽を聴くとその「タイムマシーン効果」で、心はいつも20代に戻っている様な気がします。そして、懐かしい曲を聴きながら蘇るのは、甘い思い出の学生時代や苦闘した研修時代から、いつもひたむきに生きてきた自分の姿です。「あの時代を頑張ったから今日がある。だから、今日も一生懸命頑張ろう!」と気持ちを盛り上げています。

 先日、稲垣潤一のコンサートに家内と一緒に出かけ、「思い出のビーチクラブ」や「夏のクラクション」など懐かしい曲を聴き、湘南で出会った20代の2人に戻った気分になりました。この夏は、長い真夏日が続きましたが、稲垣のCDを聴きながら夏の避暑旅行を楽しみに期待感を高め、盛夏期の診療やレセプト業務に加え、朝夕の走り込みも順調に消化できました。

 また、新しい曲も診療後のジョギング時に携帯ラジオのFMを聴いて、親しんでいます。今年の冬は、中島美嘉の超満員総立ちのコンサートにも家内と行き、心にしみる歌詞を声量いっぱいに歌う姿を生で見て感動しました。特に、「クレッセントムーン」の歌詞にある、「どんなに逆風だって私負けない。時代に潰されても二人で生き抜いていこうね。」という前向きな言葉が好きで今年の冬のテーマ曲として毎朝繰り返し聴きました。おかげで、真冬にも一度も体調を崩さず、元気に診療に励むことが出来ました。従来、音楽には、モーツァルトやバッハ等の揺らぎのあるメロディーを聴くことで、α波の脳波が増加し、情緒を安定させ免疫力を高める効果や、また、ポジティブな思考や行動に導く前向きな曲では、代謝の活性化によるダイエット効果等も報告されています。このため、自分も、日本抗加齢医学会の一員として、そのアンチエージング効果についても自験例で検討してみたいと思います。

 先日の同窓会でも友人から、「思考も顔も体型も全く変わってないな!」と冷やかされました。また、運動公園で走っていると、「大学生ですか?」とよく尋ねられ、清々しい笑顔で、「はあい。」とスポーツ青年らしく返しているこの頃です。

 そういえば、30年以上前に両親が月初のレセプトの点検時に、机を並べて手作業をしていたのを思い出します。当時は、レセコン等まだ無く、修正は、インクを丁寧に砂消しゴムで消して修正する、現在より遥かに根気のいる手作業で、「ああ紅の血は燃ゆる」や「若い血潮」等の軍歌が繰り返しレコードから流れていた光景を子供心に覚えています。この様に、音楽は、その時代その時代の人の心の応援歌にもなるのでしょう。

 今後も開業医にとって、益々厳しい医療情勢が続きますが、音楽と親しみながら、笑顔で楽しく日々の診療に励んで参りたいと思います。

 

 

 

平成16年4月15日

「厳冬期」にも笑顔で粘り強く生きるために

 

 医療の「厳冬期」にも笑顔で粘り強く診療を続けてゆくために、3年前から継続した走り込みを始めました。自分の学生時代には、陸上部の長距離競技で、恩師の澤木啓祐教授(現日本陸連強化委員長)の厳しいご指導を頂き、毎朝登校前に5キロ、授業を終えて夕暮れの神宮外苑を毎日20キロと月間600キロ以上を走破する練習を続け、箱根駅伝合宿にも2度参加した時期がありました。

 しかし、小院開業前後のブランクもあり、最初はゆっくりと歩くような速さで5キロから姶めました。余分なストレスや活性酸素を創り出さないために、今でもゆっくり時間をかけて走り、体脂肪を燃焼させています。現在は、毎朝に彼方の九州山地の山々を眺めながら、木もれ日の朝日を浴びて隣の運動公園を3キロ走り、ダンベルトレーニングを行っています。そして、夕方は、友人やMRの方と一緒に雁回山に沈む夕日を眺めたり、星座や月を見ながら、携帯のFMラジオを聴いて7キロ程のジョギングを楽しんでいます。朝のトレーニングの後はシャワーを浴び、バッハの曲を聴きながら瞑想し、爽快な気分と笑顔で患者さんの診療を楽しく行っています。また、夜のランニングの後は好きな音楽を流し、半身浴をしながら今日の事は忘れ、優しい医療情報の本を読み、明日の診療に役立てるようにしています。

 さらに、眼科特有の外来診療や顕微鏡手術の影響で、前弯しがちな姿勢を正すため、3ケ月前からはスポーツジムで、週1回専門のトレーナーの個人指導による上体部の筋トレも始めました。肩甲骨の周囲や上腕及び腹筋・背筋と大腿筋を強化することで姿勢も少し良くなり、また、上半身の贅肉も絞れてきました。そして、かつての競技生活時の最適体重を今も維持でき、体肪率も現在11%までになりました。

 一方、食事面も、外食は週2回までとし、平素は野菜・海草・大豆製品・キノコ類・ヨーグルト・りんご・小魚等を毎日欠かさず摂るようにしています。特に野菜は、抗酸化力の強いカロチノイド系の摂取を意識して、緑黄色野菜を中心に16種類以上を毎日800g以上食べています。しかし、淡黄色野菜にも「ファイトケミカル」という白血球の免疫能を向上させるカがあることを知り、この冬は意識して長ネギ・白菜・ショウガ等も努めて食べ、体も温まりました。また、就寝時間や睡眠時間等にも留意するようにしています。予防検診では、医師会の検診でも幸い異常なしでした。加えて、魚住秀昭先生の「PET」検診も興味をもって受け、やはり異常なしで安心しました。その患者本位の素晴らしいアメニティーにも感動しましたが、検査終了後、阿蘇の山々を望む広い窓から陽光が差し込む回復室で、用意された彩とりどりのお菓子を好きなだけ楽しみ堪能しながら、健康の有り難さにも感謝しました。

 今後も、厳しい医療情勢が続きますが、「厳冬期」にもいつも笑顔で、粘り強く颯爽と診療を続けられるよう体調管理と心身の持久カの向上に努め、励んで参りたいと存じます。

 

 

 

平成14年10月15日

患者負担増の制度改悪を許すな

 

 このたびの健康保険制度の改悪という暴挙に対し、熊本県保険医協会会長・上塚高弘先生のご指導を賜り、熊本日日新聞の読者の広場の「主張・提言」の欄に以下の文章を投稿しましたので、ご報告致します。

「熊本日日新聞 平成14年9月23日朝刊掲載」

国民の負担増を中心とする健康保険制度の改定法案が、無修正のまま与党3党だけの強行採決で、可決された。高齢者は、10月から外来での1割(一定所得以上は2割)負担が必要になり、また、対象年齢も今後は75歳まで段階的に引き上げられることになった。さらに、月毎の上限の額も大幅に引き上げられ、しかも、上限を超えた額は、患者さんの立て替え払いとなり、翌月に役場の窓口で申請後、2ケ月後にようやく払い戻しになるという償還払い制度になった。同時に、外来での定額制(現在850円)も撤廃となった。このため、高齢者は、医療費をいくら用意していけばよいか分からず、費用の手出しを恐れて、受診を手控え、その結果病状を悪化させる最悪のケースも多く出てくるものと懸念される。

 眼科医療においても、放置すれば確実に視覚障害につながる糖尿病性網膜症や緑内障などの患者さんが、この改定以降、診療を中断し、早期治療ができず、手遅れ失明となるような悲劇も想定され、長期的には、かえって医療費の増大を招くことも憂慮される。さらに、償還払いの事務手続きも一人暮しや寝たきり、痴呆等の方には、現実的に無理があり、払い放しのまま、泣き寝入りになることも多々予想される。

 小泉首相は「これからは、負担は軽く、給付は重くとはいかない。」との発言を繰り返しているが、国際的にみても、先進7ケ国(G7)の中で、社会保障費を減らしているのは日本だけであり、事実、老人医療費は、過去15年間に10%も削減された。さらに、来年以降も患者負担増の改悪が予定されている。

 医療費を守る財源は、無駄で異常に多い公共事業費を削減したり、不当に高い薬価を適正化する等の手段で確保できる。これ以上患者負担を増やし、高齢者など弱者の立場を軽視し、福祉を切り捨てる政治を許すべきではない。

 

 

 

 

 

 

平成13年4月1日

『開業医生活の中で感じる「予感」』

 

 平成8年の夏に小院を開院致しましてから、早4年半が過ぎようとしています。これまで、当地域の諸先生方のご指導とご支援を賜り、何とか日々無事に診察を続けております。

そんな新規開業医5年生の生活の中でも、病状が気になる患者さんのことが、自分の潜在意識の中に日々存在し、微妙な予感が当たるのを時々経験するようになりました。

例えば、ある重症のぶどう膜炎の患者さんを大学病院に紹介させて頂いたのですが、約1ケ月たった頃その方の病状がどうしても気になり、ご由宅に連絡したところ、昨日退院して自宅に戻って来たのだと電話口で嬉しそうに話してくれたことです。また、別の気難しい患者さんのことを、前夜にふと思い出していると、その方が翌日の診察に数ケ月ぶりに来院されるといった様なことも時折り経験するようになりました。

 このような予感や微妙な感覚は、開業医にとって知識の修得と共に非常に大切な生命線であり、体調を整え、平常心で診察に精進してゆくことで、この感覚を今後も大切に持ち続けてゆきたいと思っています。

 そういえば、一昔前、私がまだ小学生の頃、山陰の小さな漁港の町で内科の開業医をやっている父が、「少しおかしいな」という微妙な予感のもとに、丁寧な触診と]線だけで何例もの早期胃癌を発見したと私に話してくれた事が想い出されます。また、小児科と産婦人科医の母から「ムンテラ」という言葉を聞いたのもその頃でした。

 そして、「少しずつ必ず良くなると患者に笑顔で説明すると本当に良くなっていくものよ。」と何か確信したような眼差しで私に語ってくれたことを想い出します。

 その時は、子供心では信じられず、反発して言い返していた自分ですが、三十余年を経て、開業医を経験しながら少しだけ解りかけてきたこの頃です。

 これからも、このように奥深く素晴らしい開業医の仕事を天職として、患者さんを大切に、一日一日を無心に診療できるよう心掛け努めて参る所存であります。